世界最大級のモネ・コレクションを誇るパリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開作品を含む、厳選されたおよそ50点が来日する「モネ 睡蓮のとき」が国立西洋美術館にて、2025年2月1日まで開催
世界最大級のモネ・コレクションを誇るパリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開作品を含む、厳選されたおよそ50点が来日する「モネ 睡蓮のとき」が国立西洋美術館にて、2024年10月5日(土)から2025年2月11日(火・祝)まで開催。本展のみどころや展示作品などをご紹介します。
※以下、画像とテキストは、情報提供を受けてプレスリリースから引用
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「モネ 睡蓮のとき」概要
クロード・モネ 《睡蓮の池》
1917-1919年頃 油彩/カンヴァス 130×120 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
© musée Marmottan Monet
印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840-1926)は、一瞬の光をとらえる鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめました。しかし後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容してゆきます。
モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもありました。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池に、周囲の木々や空、光が一体となって映し出されるその水面でした。
そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす“ 大装飾画” の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになります。本展の中心となるのは、この試行錯誤の過程で生み出された、大画面の〈睡蓮〉の数々です。
本展は、パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開となる重要作を多数含むおよそ50点が来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致を紹介します。日本では過去最大規模の〈睡蓮〉が集う貴重な機会となります。
「モネ 睡蓮のとき」みどころ
みどころ01. 晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展
モネ最後の挑戦ー“光の画家” 集大成となる、晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展
みどころ02. 日本初公開の作品も展示
世界最大級のモネ・コレクションを誇るマルモッタン・モネ美術館より、 日本初公開作品7点を含む、厳選されたおよそ50点が来日。さらに、日本国内に所蔵される名画も加えた、 国内外のモネの名作が一堂に集結する充実のラインアップ
みどころ03. 〈睡蓮〉の作品も展示
モネ晩年の最重要テーマ、〈睡蓮〉の作品20点以上が展示
みどころ04. モネの世界に浸る没入体験
2メートルを超える大画面の〈睡蓮〉に囲まれて、モネの世界に浸る、本物の没入体験
第1章 セーヌ河から睡蓮の池へ
1890年、50歳になったモネは、7年前に移り住んだノルマンディー地方の小村ジヴェルニーの土地と家を買い取り、これを終の棲家とします。それはまた彼が、同一のモティーフを異なる時間や天候のもと繰り返し描く、連作の手法を確立した時期でもありました。やがて画家の代名詞ともなるジヴェルニーの自邸の庭はしかし、すぐにその作品へと結実したわけではありません。
1890年代後半に主要なモティーフとなったのは、モネが3年連続で訪れたロンドンの風景や、彼の画業を通じてつねに最も身近な存在であったセーヌ河の風景でした。とりわけ、この時期に描かれたセーヌ河の水辺の風景では、しばしば水面の反映がかたちづくる鏡像に主眼が置かれており、のちの〈睡蓮〉を予見させます。
1893年、モネは自邸の庭の土地を新たに買い足し、セーヌ河の支流から水を引いて睡蓮の池を造成します。この“ 水の庭” が初めて作品のモティーフとして取り上げられたのは、それから2年後のことでした。さらに、池の拡張工事を経た1903 年から1909年までに手掛けられたおよそ80点におよぶ〈睡蓮〉連作において、画家のまなざしは急速にその水面へと接近します。
周囲の実景の描写はしだいに影をひそめ、ついには水平線のない水面とそこに映し出される反映像、そして光と大気が織りなす効果のみが画面を占めるようになりました。こうして、セーヌ河を流れる水は睡蓮の池へと姿を変え、晩年のモネにとって最大の創造の源となったのです。
クロード・モネ
《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》
1897年 油彩/カンヴァス 91×93 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託)
© musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
1896年から1898年にかけ、モネはジヴェルニーからほど近いセーヌ河の眺めを主題とする連作およそ20 点を制作しました。いずれの作例においても視点は厳密に固定され、画面中央を走る水平線を境に木々とその反映が鏡像をなします。制作にあたり、画家は毎朝3時半に起床しては、早朝の光と大気の微妙な変化にしたがい、14点ものカンヴァスを並行して手掛けたといわれます。
本作では、未明のほのかな光と朝霧に包まれた風景が、青、紫、深緑、ばら色からなるやわらかな色彩の調和のうちに表されます。この詩情豊かな連作はしばしばカミーユ・コローの作品とも比較され、モネに大きな名声をもたらしました。
クロード・モネ
《睡蓮、夕暮れの効果》1897年
油彩/カンヴァス 73×100 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
© musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
モネが初めて睡蓮を描いたのは、池の眺めが最初に描かれた1895年からさらに2年後の1897年のこととされています。本作は、その最初期の〈睡蓮〉と推定される作品の一つです。ここでは後年の連作とは対照的に、水面を淡いばら色に染める夕暮れの光の効果よりもむしろ、睡蓮の花それ自体がクローズ・アップされ、細やかな筆致で描写されています。
白い花のモティーフは、画家と親交の深かった象徴派の詩人ステファヌ・マラルメによる散文詩「白い睡蓮」を想起させます。1897年にジヴェルニーのアトリエを訪れた人物の証言や画家自身の手紙の言葉によれば、このときすでにモネは小規模ながら睡蓮の装飾画の構想を心に抱き、その習作の制作に着手していました。
第2章 水と花々の装飾
装飾芸術がかつてない隆盛を見た19世紀末のフランスでは、多くの画家たちが装飾画の制作に取り組みました。モネもその例外ではなく、彼が初めて本格的な装飾画を手掛けたのは、1870年代の印象派時代にさかのぼります。やがて、1890年代を通じて連作の展示効果を追求する中で、睡蓮という一つの主題のみからなる装飾画の構想がその心に芽生えます。
1909年の「水の風景連作」展以降、のちに白内障と診断される視覚障害の兆候や最愛の妻の死をはじめとする不幸は、モネの画業に一時の空白期間をもたらしました。しかし1914年に再び創作意欲を取り戻すと、かつて抱いた装飾画の構想に精力的に取り組みはじめます。当初は睡蓮のみならず、池の周囲に植えられた多種多様な花々をもそのモティーフとして想定していたのでしょう。
大の園芸愛好家であったモネは、さながらカンヴァスに絵具を置くように、その庭を色彩豊かな花々で彩りました。なかでも、実現することなく終わった幻の装飾画の計画において重要な役割を担っていたのが、池に架けられた太鼓橋の藤棚に這う藤と、岸辺に咲くアガパンサスの花でした。ところが、最終的にモネはそれらの花々による装飾の考えを放棄し、壁一面を池の水面とその反映によって覆うことを選びます。
クロード・モネ 《藤》
1919-1920年頃 油彩/カンヴァス 各100×300 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
(上) © musée Marmottan Monet
(下) © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
1920年、モネは計12点の睡蓮の装飾パネルをフランス国家へ寄贈することに合意し、その専用の展示館を新たに建設するための場として、敬愛する彫刻家オーギュスト・ロダンの美術館が開館してまもないオテル・ビロンの敷地を指定します。この当初の計画においては、円形の建物の四方を飾る睡蓮の壁画の上部に、藤の花をモティーフとするフリーズ(帯状装飾)が設置される予定でした。
結局、展示館を新設する計画は財政上の問題などから頓挫し、今日オランジュリー美術館として知られるチュイルリー公園の既存の建物へと場所を移す過程で、藤のフリーズの構想も断念されます。この2点の《藤》は、現存する8点のフリーズの習作の中でも最も大きなもので、ひときわ明るい色彩と伸びやかなストロークによって描かれています。
第3章 大装飾画への道
「大装飾画(Grande Décoration)」とは、睡蓮の池を描いた巨大なパネルによって楕円形の部屋の壁面を覆うという、モネが長年にわたり追い求めた装飾画の計画です。最終的にパリのオランジュリー美術館に設置されることになるこの記念碑的な壁画の制作過程において、70 代の画家は驚嘆すべきエネルギーでもって、水面に映し出される木々や雲の反映をモティーフとするおびただしい数の作品群を生み出しました。
1914年以降の大装飾画に関連する制作を決定づけるものは、第一にその画面の大きさです。この時期の〈睡蓮〉は多くの場合、長辺が2メートルにおよび、1909年までに手掛けられた〈睡蓮〉と比べると、面積にして4倍を超えます。巨大化した作品のサイズに応じ、モネは新たに広大なアトリエを建設します。
そしてこのアトリエにおいて、戸外で描かれた習作をもとに、しばしば幅4メートルにも達する装飾パネルの制作に取り組みました。それは、自然の印象から出発して、その印象を記憶とともに内面化しつつ再構成する試みであり、いうなれば印象派絵画を超える挑戦でもありました。
ごく少数の例外を除き、モネはこれら大装飾画に関連する作品のほとんどを生前に手放すことなく、1926年の死の間際にいたるまで試行錯誤を重ねます。国立西洋美術館のコレクションの基礎を築いた松方幸次郎は、モネが唯一、その巨大な装飾パネルの一つを売ることを認めた相手でした。
クロード・モネ 《睡蓮》
1916-1919年頃 油彩/カンヴァス 200×180 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
© musée Marmottan Monet
池の水面に映し出される空と雲の反映は、1914年以降の制作において重要なモティーフの一つとなりました。本作は、青空と明瞭なコントラストをなす白い雲、鮮やかなピンク色の睡蓮の花、画面上部に垂れ下がる枝垂れ柳の葉などから、オランジュリーの大装飾画のうち《朝の柳》の右パネルを想起させます。
一方で、その自由な筆致や、水面と雲をほのかに染めるオレンジ色の光などには、最終的な画面には見られない画家の生き生きとした感覚が刻印されています。記憶を頼りに絶えず画面に筆を加える過程において、モネはこうした一瞬の印象を厚く塗りこめ、普遍的な自然の循環へと変貌せしめました。
第4章 交響する色彩
モネの絵画は、その色彩が生む繊細なハーモニーゆえに、同時代からしばしば音楽にたとえられました。1921年に洋画家の和田英作が松方幸次郎らを伴いジヴェルニーのアトリエを訪れた際、〈睡蓮〉の近作をして「色彩の交響曲」と評したところ、モネが「その通り」と答えたという逸話も知られています。
しかし、1908年ごろからしだいに顕在化しはじめた白内障の症状は、晩年の画家の色覚を少なからず変容させることになりました。悪化の一途をたどる視力に絶えず苦痛を訴えながらも、モネは1923年まで手術を拒み、絵具の色の表示やパレット上の場所に頼って制作を行うことさえあったといいます。
1918年の終わりごろから最晩年には、死の間際まで続いた大装飾画の制作と並行して、複数の独立した小型連作が手掛けられました。モティーフとなったのは、“ 水の庭” の池に架かる日本風の太鼓橋や枝垂れ柳、“ 花の庭” のばらのアーチがある小道などです。これらの作品は、不確かな視覚に苛まれる中にあって衰えることのない画家の制作衝動と、経験から培われた色彩感覚に基づく実験精神を今日に伝えています。画家の身振りを刻印する激しい筆遣いと鮮烈な色彩は、のちに1950 年代のアメリカで台頭した抽象表現主義の先駆に位置づけられ、モネ晩年の芸術の再評価を促すことになります。
クロード・モネ《 睡蓮の池》
1918-1919年頃 油彩/カンヴァス 73×105 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
© musée Marmottan Monet
クロード・モネ 《日本の橋》
1918年 油彩/カンヴァス 100×200 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
© musée Marmottan Monet
エピローグ さかさまの世界
「大勢の人々が苦しみ、命を落としている中で、形や色の些細なことを考えるのは恥ずべきかもしれません。しかし、私にとってそうすることがこの悲しみから逃れる唯一の方法なのです。」大装飾画の制作が開始された1914年に、モネはこう書いています。折しもそれは、第一次世界大戦という未曾有の戦争が幕を開けた同年のことでした。
そして1918年に休戦を迎えると、時の首相にして旧友のジョルジュ・クレマンソーに対し、戦勝記念として大装飾画の一部を国家へ寄贈することを申し出ます。その画面に描かれた枝垂れ柳の木は、涙を流すかのような姿から、悲しみや服喪を象徴するモティーフでもありました。
モネがこの装飾画の構想において当初から意図していたのは、始まりも終わりもない無限の水の広がりに鑑賞者が包まれ、安らかに瞑想することができる空間でした。それは、ルネサンス以来西洋絵画の原則をなした遠近法(透視図法)による空間把握と、その根底にある人間中心主義的な世界観に対する挑戦であったとも言い換えられるでしょう。
画家を最期まで励まし続け、その死後1927年の大装飾画の実現に導いた立役者であるクレマンソーは、木々や雲や花々が一体となってたゆたう睡蓮の池の水面に、森羅万象が凝縮された「さかさまの世界」を見出します。モネの〈睡蓮〉は、画家が生きた苦難の時代から今日にいたるまで、人々が永遠の世界へと想いを馳せるよすがともなったのです。
クロード・モネ
《枝垂れ柳と睡蓮の池》1916-1919年頃
油彩/カンヴァス 200×180 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
© musée Marmottan Monet
クロード・モネ 《睡蓮》
1916-1919年頃
油彩/カンヴァス 200×180 cm
マルモッタン・モネ美術館、パリ
© musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB
開催概要
展覧会名 | モネ 睡蓮のとき |
会期 | 2024年10月5日(土)〜2025年2月11日(火・祝) |
時間 | 9:30〜17:30(金・土曜日は21:00まで) ※入館は閉館の30分前まで |
休館日 | 月曜日、10月15日[火]、11月5日[火]、 12月28日[土]-2025年1月1日[水・祝]、1月14日[火] (ただし 、10月14日[月・祝]、11月4日[月・休]、2025年1月13日[月・祝]、 2月10日[月]、2月11日[火・祝]は開館) |
会場 | 国立西洋美術館 |
住所 | 〒110-0007 東京都台東区上野公園7-7 |
MAP | |
入場料 | 一 般/2,300円 大学生/1,400円 高校生/1,000円 ※中学生以下、心身に障害のある方及び付添者 1 名は無料。入館の際に学生証または年齢の確認 できるもの、障害者手帳をご提示ください。 ※国立美術館キャンパスメンバーズ加盟校の学生・教職員は本展を学生 1,200 円、教職員 2,100 円 でご覧いただけます。学生証または教職員証をご提示のうえ、国立西洋美術館券売窓口にてお求めください。 ※12月12日(木)〜27日(金)、2025年1月2日(木)-17日(金)は高校生無料観覧日。入館の際に学生証をご提示ください。 ※観覧当日に限り本展の観覧券で常設展もご覧いただけます。 |
チケット購入先 | 「モネ 睡蓮のとき」オンラインチケット(e-tix)、日テレゼロチケ、ローソンチケット、アソビュー、セブンチケット、チケットぴあ、イープラス ※手数料がかかる場合があります。 国立西洋美術館(開館日のみ) |
公式サイト | https://www.ntv.co.jp/monet2024/ |
美術館公式サイト | https://www.nmwa.go.jp/jp/ |
SNS一覧 | |
主催 | 国立西洋美術館、マルモッタン・モネ美術館、日本テレビ放送網、読売新聞社、BS日テレ |
後援 | 在日フランス大使館 / アンスティチュ・フランセ |
特別協賛 | 大成建設 |
協賛 | 第一生命グループ、光村印刷、SOMPOホールディングス |
協力 | 日本貨物航空、NX 日本通運、TOKYO MX、TOKYO FM、ニッポン放送、西洋美術振興財団 |
企画協力 | NTVヨーロッパ |
巡回情報
京都展
会場:京都市京セラ美術館
会期:2025年3月7日(金)〜6月8日(日)
豊田展
会場:豊田市美術館
会期:2025年6月21日(土)〜9月15日(月・祝)
Takenaka Kenji
playpark合同会社 代表・クリエイティブディレクター
1983年生まれ。大阪の出版社でデザイナー・編集者として勤務。ECサイト会社などを経て2017年デザイン事務所playparkを設立。2022年にアート、デザイン、エンタメ、クリエティブなど業界のクリエイティブを「発見し、考え、繋げる」をテーマにWEBマガジンBuzzBubble(バズルバブル)をスタートさせる。
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